ヒゼキヤとセナケリブ

ユダの王ヒゼキヤと、アッシリアの王セナケリブ

ヒゼキヤ王とセナケリブ王をめぐる、エルサレムにおける紀元前701年の出来事は、旧約聖書の記事とアッシリア王の年代記の両方から「直接」確認できることがらです。同じ出来事を異なった角度から書きとめている二つの記事に注目する時、その歴史的事実の意味がさらに明らかになります。

このことについて写真、図、地図、年表等のパネル展示と、立体地図、遺物資料の展示などによって、具体的に学ぶことができます。以下ではその内容をご紹介いたしましょう。

年表

 

 

オリエント世界 10世紀以降―586BC

紀元前1000年以降のオリエント世界は、 最初にアッシリア、次に、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア、そしてアレキサンダーによるギリシアという諸帝国によって次々と制覇されました。

新アッシリア帝国は、9世紀半ばのシャルマネセル3世によるシリア・パレスチナへの西方遠征以降、約100年の間、北方のウラルトゥに対する戦いに力をそがれました。しかしティグラトピレセル3世(別名プル)が745年に即位してからは、再び西方政策が重視され、数回に渡ってシリア・パレスチナに侵攻しました。

次のシャルマネセル5世とサルゴン2世も同じ政策を引き継ぎ、北イスラエル王国の首都サマリヤを包囲、陥落させ、その住民の多くをアッシリアの町々に捕え移しました。その代りにサマリヤには、バビロンなど外国の町々からの人々を住ませました。これはアッシリアが征服した民に対してしばしば行った大量移送計画(捕囚)の政策であり、両方向の移送はティグラテピレセル3世によって初めて行われました。

「ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。」(Ⅱ列王記17:6)
「アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代りにサマリヤの町々に住ませた。それで、彼らは、サマリヤを占領して、そこの町々に住んだ。」(Ⅱ列王記17:24)

北王国イスラエル滅亡の理由

北王国イスラエルが滅亡した直接の理由はシャルマネセル5世、サルゴン2世によるサマリヤ包囲攻撃、陥落、捕囚ですが、聖書にはその背景が次のように記されています。

こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。(Ⅱ列王記17:7、8)

アシュタロテ女神

アシュタロテの小像

当時のイスラエルには、このような像が国の至る所にありました。偶像礼拝に陥っていたイスラエルの民の状況を示す一例です。

ユダの王ヒゼキヤ

723年に、北イスラエル国がアッシリアによって滅ぼされた時、そのことを目の当たりに見ていた南ユダ国の王は、ヒゼキヤ(B.C.729−686)でした。

彼は 二十五歳で王となリ、エルサレムで二十九年間、王であった。… 彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。(Ⅱ列王記18:2、3)

 

 

アッシリア王セナケリブのユダ侵攻

サルゴン2世の後にアッシリアの王になったのはセナケリブ(B.C.705−681)です。彼の下で、西方遠征はさらに推し進められました。Ⅱ列王記18:13には、

「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。」

と記されています。この時の進攻についてセナケリブは、彼の「年代記」の中に詳しい記録を残しています。また、ニネベにある彼の王宮の壁一面に、ユダのラキシュ攻略を描いたレリーフを張り巡らしていました。この時のセナケリブの最終目標は、エルサレムでした。

一方、かつてない危機的な状況の中で、エルサレムでは、ヒゼキヤ王の指導の下で、やがて到来するアッシリア軍の襲撃にそなえて、着々と準備が行われていました。

アッシリア王セナケリブの遠征攻撃

紀元前701年

エルサレムと、ユダの地

東のオリーブ山から見たエルサレム(右が北)。古代「ダビデの町」の丘は南城壁の外にあります。

ユダ地方の一風景(テル・ラキシュからの眺め)

 

エルサレムの防衛

ヒゼキヤは、セナケリブが攻め入って、エルサレムに向かって戦おうとしているのを見たので、彼のつかさたち、勇士たちと相談し、この町の外にある泉の水をふさごうとしましたた。彼らは王を支持しました。

そこで、多くの民が集まり、すべての泉と、この地を流れている川をふさいで言った。「アッシリヤの王たちに、攻め入らせ、豊富な水を見つけさせてたまるものか。」それから、彼は奮い立って、くずれていた城壁を全部建て直し、さらに、やぐらを上に上げ、外側にもう一つの城壁を築き、ダビデの町ミロを強固にした。そのうえ、彼は大量の投げ槍と盾を作った。(新改訳聖書 Ⅱ歴代誌 32:2−5)

旧約時代のエルサレム地図

「ギホンの泉」の水は今も「ヒゼキヤのトンネル」を通って流れています。この場所の先に、新たに新約聖書時代の「シロアムの池」が発見されました。

写真右下:新たに発掘された「シロアムの池」の一部(Photo:T.Sato)。

この丘の下に、「ヒゼキヤのトンネル水路」が掘られた

「ダビデの町」の丘(写真:点線内)の下、キデロンの谷底に「ギホンの泉」が、その中腹に「ウォレン・シャフト」(ウォレンの竪坑)があります。右は「神殿の丘」と、エルサレム旧市街です。

ギホンの泉

キデロンの谷の「ギホンの泉」は、エルサレムの城壁の南東角の下に位置します。ここから水は、 S字形に掘られた「ヒゼキヤの トンネル」内を 「シロアムの池」へ、わずかな勾配をゆるやかに流れました。 ギホンの泉(ヒゼキヤのトンネル水路の入り口)

ヒゼキヤのトンネルの断面図

ヒゼキヤのトンネル内で発見された、ヘブル語「シロアム碑文」

「シロアム碑文」の和訳

 トンネルが[貫通した日]。
次が貫通の時の状況である。 石工たちが、一方がもう一方に向って、ピック(石のみ)を巧みに使っていた間に、そして[貫通するまで]まだ3キュビトあった時に、一方がもう一方に叫ぶ声が[聞えた]。南から[北に向って]岩に亀裂が走っていたからである。貫通した日、石工たちは、互いに相手の方向に向って、ピックを交わして掘っていた。すると水が泉から池の方向に、1200キュビトに渡って、流れ出した。石工たちの頭上の岩の高さは100キュビトあった。 (津村私訳)
(1キュビト= 約44cm)

南から見たエルサレム

中央が「ダビデの町の丘」と、キデロンの谷

 

テイラー・プリズム

旧約聖書に記されている出来事が、 セナケリブ王の側からも記録に残されています。それは、テイラー・プリズムと呼ばれ、 高さ38.5cmの六角柱のそれぞれの面に楔形文字(新アッシリア文字…陳列品の一つであるギルガメシュ叙事詩第11粘土板レプリカの文字と同じ)の碑文が刻まれた石碑です。

1830年に英国人のテイラー大佐によってニネヴェで発見されました。アッシリアの王セナケリブ(紀元前705−681在位)が、 自分の始めの8回の遠征の記録をアッカド語で克明にしたためたもので、 殆ど同じオリジナル版がシカゴ大学・オリエント研究所にあります。 このような同じ事件に対して、 全く別の角度から記された二つの記述を細かく比べてみると興味深いことが明らかとなります。

「テイラー・プリズム」から

セナケリブは、この時のエルサレム進攻を六角柱の年代記に記している。 セナケリブの碑文(Ⅲ:11- 41;Ⅲ:18 – 49)にこうあります。

「さて私のくびきに服さなかったユダヤ人の国のヒゼキヤについて、私は彼に属する46の強力な要塞都市とその周辺の無数の村々を、踏み固めた土のランプや、破城鎚による攻撃、歩兵による戦いにより、また要塞の下を掘ったり、城壁を破ったり、はしごでよじ登ったりして、それらを包囲し征服した。あらゆる階級の人々を、男も女も200,150人、馬やラバやロバやラクダ、無数の大小の家畜をそれらの町から連れ出し、戦利品として数えた。
彼自身は、私は彼の王都エルサレムに、篭の鳥のように、閉じ込めた。…
私は、彼等が毎年払うべきそれまでの年貢に加えて、私の主権に相応しい貢ぎ物を納めるようにさせた。ヒゼキヤ自身、私の主権の威光からくる恐れに圧倒されて、王都エルサレムを補強するために彼が導入していた、戦士や選り抜きの軍隊は戦わなかった。… 彼は遣いをよこして、貢ぎ物を送り私に敬意を表した。」  (津村私訳)

旧約時代のエルサレム 立体模型地図

ラキシュで指揮を執るセナケリブ王

本陣のあるラキシュで王座についているセナケリブ。 そこで彼は、 降伏した民から献納物を受けています。 右手に矢、 左手に弓… アッシリア王の勝利の身振り。 顔の部分は、612年にニネヴェが、バビロニアとエラムの合同軍によって陥落したときに、征服者によって破損されたのかも知れません。

キデロンの谷

中央下に「ギホンの泉」への入り口がある。

テル・ラキシュ遺跡

前701年に、アッシリア軍の猛攻を受けたテル・ラキシュ(頂上)


テル・ラキシュの外城門への道。

ラキシュを攻めるセナケリブ軍

大英博物館所蔵のレリーフの写真

ラキシュから「捕囚」として連れて行かれる人たち

左:投降したユダの兵士。荷物を担がされています。中央:ユダの農夫でしょうか。旅行袋を肩に、 家族と、荷物(穀物?)を牛車にのせて行きます。
※ラキシュ攻略を描くアッシリアのレリーフ(大英博物館)から。

アッシリア軍による「要塞都市」攻略の方法

アッシュルナツィルパル王(2世)による攻城を描くレリーフ(大英博物館蔵)から。当時の攻城の様々なテクニックがよく分かります。

楔形文字の翻訳

アラム語の国際性

アッシリアの将軍たちは、当時の外交上の言語であるアラム語ではなく、「ユダのことば」を用いて、 人民の心を揺さぶり、王ヒゼキヤへの信頼を失わせようと心理作戦を用いました。アラム語が当時のオリエントにおいて公用語であったことは、 アッシリアからのアラム語文書(例えば、アラム語の荷札、借用証書、円筒印章に刻まれたアラム語碑文)や、アッシリアのレリーフにあらわれる二人の書記官の姿から分かります。一人は、蝋引きした文書板を片手に持ち、スタイリスで楔形文字のアッシリア語(アッカド語)で記録していますが、 もう一人は片手に羊皮紙の巻物を持って、 筆で線文字アルファベットを書き、 アラム語の記録をつけています。

ラキシュを攻めていたセナケリブは…

アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。 (Ⅱ列王記18章から)

その当時のオリエントにおいては、アラム語が公用語であったので、ユダの役人らは、「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばでは話さないでください。」と頼んでいます。

ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、語って言った。「大王、アッシリヤの王のことばを聞け。王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを私の手から救い出すことはできない。ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。…」 (Ⅱ列王記18章から)

預言者イザヤのことば

ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』

ヒゼキヤ王の祈り

「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。主よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です… 私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」(Ⅱ列王記19章から)

セナケリブは、ヒゼキヤをエルサレムの中に「閉じ込めた」と言うだけで、ヒゼキヤが降伏したとか、アッシリア軍が町の中に侵攻したとかは言っていません。このことは、彼によるエルサレム攻略の試みが失敗に終ったことを、計らずも告白したことになっています。

聖書の記録は(Ⅱ列王記19章から)

その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代って王となった。」

聖書とアッシリアの年代記との間には、細かい表現上の差異が当然あるし、ものを見る視点や評価の基準が異なります。今回採り上げた聖書の記事とオリエントの記録は、異なる表現の背後に、紀元前701年に起った同じ出来事があったことを示しています。

[終]

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