聖書考古学資料館理事長 津村俊夫
アッシリアの王達が、王宮の壁面に浮き彫り(レリーフ)をはめ込んで装飾をほどこしたことは良く知られています。そのような浮き彫りのなかに、戦利品や切り首の数を記録している書記官の姿がいくつか描かれています。いずれの場合も「二人」の書記官が並んで描かれていて、一人が左手に「書板」、右手に先端の角張った筆記具を持ち、もう一人が左手に巻物、右手に先の尖った筆記具を持っています。
前者が手にしている書板は、左右が蝶番によって折畳むことが出来るようになっていて、その上にロウが引かれています。彼は、葦の茎の部分を縦に二つに割って作った筆記具(スタイルス)で、楔形のアッシリア文字を書いています。楔型文字は、通常は粘土板に書かれるが、戦場では持ち運びが不便であるため、木製や象牙の文書板にまず記録され、その後に粘土板に書き写されたようです。ロウは融かして、再び文字を書くことが出来ました。
もう一人の書記官が持っているのは、羊皮紙の巻物で、筆で、線文字アルファベットのアラム文字を書いています。古代オリエント世界のほぼ全てを支配下におくほど(前7世紀後半のアッシュルバニパル王の時にはエジプトをも征服した)のアッシリア帝国でも、言語は、母国語であるアッカド語ではなく、アラム語が公用語として用いられました。このような背景を知っていると、前701年に、アッシリアの大軍がエルサレムを包囲したときに、なぜユダの高官がアッシリアの将軍ラブ・シャケに当時の外交上の言語である「アラム語」で話してくれるように願ったのかが理解できます。しかし、アッシリアの意図は、民の心を王ヒゼキヤから離反させることにあったので、一般の人が理解した「ユダのことば」を用いるという巧妙な方法を採りました(第II列王記18:26-28参照)。
楔型文字が書かれた粘土板の押印には、通常は円筒印章が用いられましたが、羊皮紙の巻物の場合、それを巻いて紐で結び、その上に粘土塊を置き、その上にスタンプ印章が押印されました。巻物は、粘土板文書とは違い、腐食してしまった為に、封印のために用いられたスタンプ印章の印影だけが、粘土塊(ブラ)の上に残りました。このようなブラの裏面には、羊皮紙やパピルスの繊維の跡が付いており、王国時代以降のイスラエルにも数多く出土しています。その中に、「書記官、ネリヤフの子バルキヤに属する」(lbrkyh bn nryhw hspr)と記されたブラがありますが、彼は、預言者エレミヤの書記官「ネリヤの子バルク」(エレミヤ32:12)ではないかと言われています。
以上を考慮に入れると、パピルスなどに文字を書く習慣が早くからあったエジプトに近いユダから、なぜ書かれた文書がわずかしか残っていないかが理解できます。しかし、文書が残っていなくても、小さなブラの存在は、その背後にかなりの量の書かれた文書テキストが存在していたことを示唆しています。アッシリア帝国の王宮に飾られていた壮大な浮き彫りと共に、指先くらいの大きさの、小さな粘土の塊は、聖書の世界について多くのことを物語っているのです。