テイラー・プリズム

 旧約聖書に記されている出来事が、 セナケリブ王の側からも記録に残されている。それは、テイラー・プリズムと呼ばれ、 高さ38.5cmの六角柱のそれぞれの面に楔形文字(新アッシリア文字...陳列品の一つであるギルガメシュ叙事詩第11粘土板レプリカの文字と同じ)の碑文が刻まれた石碑である。
 1830年に英国人のテイラー大佐によってニネヴェで発見された。アッシリアの王セナケリブ(紀元前705−681在位)が、 自分の始めの8回の遠征の記録をアッカド語で克明にしたためたもので、 殆ど同じオリジナル版がシカゴ大学・オリエント研究所にある。 このような同じ事件に対して、 全く別の角度から記された二つの記述を細かく比べてみると興味深いことが明らかとなる。

「テイラー・プリズム」から

 セナケリブは、この時のエルサレム進攻を六角柱の年代記に記している。 セナケリブの碑文(Ⅲ:11- 41;Ⅲ:18 - 49)から
 「さて私のくびきに服さなかったユダヤ人の国のヒゼキヤについて、私は彼に属する46の強力な要塞都市とその周辺の無数の村々を、踏み固めた土のランプや、破城鎚による攻撃、歩兵による戦いにより、また要塞の下を掘ったり、城壁を破ったり、はしごでよじ登ったりして、それらを包囲し征服した。あらゆる階級の人々を、男も女も200,150人、馬やラバやロバやラクダ、無数の大小の家畜をそれらの町から連れ出し、戦利品として数えた。
 彼自身は、私は彼の王都エルサレムに、篭の鳥のように、閉じ込めた。...
 私は、彼等が毎年払うべきそれまでの年貢に加えて、私の主権に相応しい貢ぎ物を納めるようにさせた。ヒゼキヤ自身、私の主権の威光からくる恐れに圧倒されて、王都エルサレムを補強するために彼が導入していた、戦士や選り抜きの軍隊は戦わなかった。... 彼は遣いをよこして、貢ぎ物を送り私に敬意を表した。」  (津村私訳)

旧約時代のエルサレム 立体模型地図

ラキシュで指揮を執るセナケリブ王

 本陣のあるラキシュで王座についているセナケリブ。 そこで彼は、 降伏した民から献納物を受けている。 右手に矢、 左手に弓... アッシリア王の勝利の身振り。 顔の部分は、612年にニネヴェが、バビロニアとエラムの合同軍によって陥落したときに、征服者によって破損されたのかも知れない。 

キデロンの谷

中央下に「ギホンの泉」への入り口がある。

テル・ラキシュ遺跡

前701年に、アッシリア軍の猛攻を受けたテル・ラキシュ(頂上)
テル・ラキシュの外城門への道。

ラキシュを攻めるセナケリブ軍

大英博物館所蔵のレリーフの写真

ラキシュから「捕囚」として連れて行かれる人たち

投降したユダの兵士。荷物を担がされている。
ユダの農夫か。旅行袋を肩に、 家族と、荷物(穀物?)を牛車にのせて行く。
ラキシュ攻略を描くアッシリアのレリーフ(大英博物館)から。

アッシリア軍による「要塞都市」攻略の方法

アッシュルナツィルパル王(2世)による攻城を描くレリーフ(大英博物館蔵)から。
当時の攻城の様々なテクニックがよく分る。

楔形文字の翻訳

アラム語の国際性

アッシリアの将軍たちは、当時の外交上の言語であるアラム語ではなく、「ユダのことば」を用いて、 人民の心を揺さぶり、王ヒゼキヤへの信頼を失わせようと心理作戦を用いた。アラム語が当時のオリエントにおいて公用語であったことは、 アッシリアからのアラム語文書(例えば、アラム語の荷札、借用証書、円筒印章に刻まれたアラム語碑文)や、アッシリアのレリーフにあらわれる二人の書記官の姿から分る。一人は、蝋引きした文書板を片手に持ち、スタイリスで楔形文字のアッシリア語(アッカド語)で記録しているが、 もう一人は片手に羊皮紙の巻物を持って、 筆で線文字アルファベットを書き、 アラム語の記録をつけている。

ラキシュを攻めていたセナケリブは...

 アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。 (Ⅱ列王記18章から)
 その当時のオリエントにおいては、アラム語が公用語であったので、ユダの役人らは、「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばでは話さないでください。」と頼んでいる。

 ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、語って言った。「大王、アッシリヤの王のことばを聞け。
 王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを私の手から救い出すことはできない。ヒゼキヤが、は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちにを信頼させようとするが、そうはさせない。...」 (Ⅱ列王記18章から)

預言者イザヤのことば

 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、イザヤは彼らに言った。
 「あなたがたの主君にこう言いなさい。はこう仰せられる。
 『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』

ヒゼキヤ王の祈り

 「よ。御耳を傾けて聞いてください。よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。
よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です... 私たちの神、よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、よ、あなただけが神であることを知りましょう。」(Ⅱ列王記19章から)

 セナケリブは、ヒゼキヤをエルサレムの中に「閉じ込めた」と言うだけで、ヒゼキヤが降伏したとか、アッシリア軍が町の中に侵攻したとかは言っていない。このことは、彼によるエルサレム攻略の試みが失敗に終ったことを、計らずも告白したことになっている。

聖書の記録は(Ⅱ列王記19章から)

 その夜、の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代って王となった。」

 聖書とアッシリアの年代記との間には、細かい表現上の差異が当然あるし、ものを見る視点や評価の基準が異なる。今回採り上げた聖書の記事とオリエントの記録は、異なる表現の背後に、紀元前701年に起った同じ出来事があったことを示している。

新約聖書関係のパネル展示

≪ ヒゼキヤ王とエルサレムの防衛に戻る  
聖書考古学資料館の展示室
アッシリア帝国の西方政策と、サマリヤ陥落
セナケリブ王のユダ侵攻
ヒゼキヤ王とエルサレムの防衛
アッシリアの記録と、聖書の記録
Copyright©Tokyo Museum of Biblical Archaeology. All Rights Reserved