オリエント世界 10世紀以降―586BC

 紀元前1000年以降のオリエント世界は、  最初にアッシリア、次に、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア、そしてアレキサンダーによるギリシアという諸帝国によって次々と制覇された。
 新アッシリア帝国は、9世紀半ばのシャルマネセル3世によるシリア・パレスチナへの西方遠征以降、約100年の間、北方のウラルトゥに対する戦いに力をそがれた。しかしティグラトピレセル3世(別名プル)が745年に即位してからは、再び西方政策が重視され、数回に渡ってシリア・パレスチナに侵攻した。

 次のシャルマネセル5世とサルゴン2世も同じ政策を引き継ぎ、北イスラエル王国の首都サマリヤを包囲、陥落させ、その住民の多くをアッシリアの町々に捕え移した。その代りにサマリヤには、バビロンなど外国の町々からの人々を住ませた。
これはアッシリアが征服した民に対してしばしば行った大量移送計画(捕囚)の政策であり、両方向の移送はティグラテピレセル3世によって初めて行われた。

 ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。Ⅱ列王記17:6
 アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代りにサマリヤの町々に住ませた。それで、彼らは、サマリヤを占領して、そこの町々に住んだ。Ⅱ列王記17:24

北王国イスラエル滅亡の理由

(シャルマネセル5世、サルゴン2世によるサマリヤ包囲攻撃、陥落、捕囚)

 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。  
新改訳聖書 Ⅱ列王記17:7、8

アシュタロテ女神

アシュタロテ女神

 アシュタロテの小像。
  このような像が、国の至る所にあった。
  偶像礼拝に陥っていたイスラエルの民の状況を示す一例である。(TMBA)

ユダの王ヒゼキヤ

 723年に、北イスラエル国がアッシリアによって滅ぼされた時、そのことを目の当たりに見ていた南ユダ国の王は、ヒゼキヤ(729−686)であった。
  彼は 二十五歳で王となリ、エルサレムで二十九年間、王であった。… 彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、の目にかなうことを行なった。Ⅱ列王記18:2、3 

≪ 聖書考古学資料館の展示室 セナケリブ王のユダ侵攻 ≫
聖書考古学資料館の展示室
アッシリア帝国の西方政策と、サマリヤ陥落
セナケリブ王のユダ侵攻
ヒゼキヤ王とエルサレムの防衛
アッシリアの記録と、聖書の記録
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